沖縄報告 1月31日
辺野古新基地に陸自水陸機動団常駐の密約
沖縄 K・S
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新基地は日米軍事一体化の象徴
沖縄新報、沖縄タイムスの2021年1月25日付の1、2、3面および社会面に、「辺野古の新基地に自衛隊を常駐 海兵隊と自衛隊のトップが極秘合意」「軍事優先の独走 グアム移転後も拠点死守」「負担軽減名ばかり」などの見出しの報道がされた。
海兵隊司令官
と陸幕長が合意
両紙によると、2015年、沖縄駐留米海兵隊のニコルソン司令官と陸自トップの岩田陸上幕僚長がキャンプ・シュワブ、辺野古新基地の「joint use colocation(共同使用、共同配備)」として、陸自水陸機動団の常駐と米海兵隊基地の共同使用に合意していた。
2015年といえば、前年の知事選で誕生した翁長雄志知事が埋立を止めるために、安倍首相や菅官房長官との会談を行うなど懸命な努力を続けていた時期だ。辺野古新基地反対!の民意を体現した翁長知事を冷遇・無視し、「辺野古唯一」に執着した安倍・菅政権は、米海兵隊の日本版・水陸機動団の基地を日米軍事一体化の象徴として造ろうとしていたのだ。既に配備図面まで出来上がっていたという。「普天間の代替」はもっともらしい口実だった。しかも、陸自が駐屯し共同使用すれば、米軍専用施設ではなくなり、現在70%を超える沖縄の比率が下がり「負担軽減」のように映るという統計のマジックを生み出すことにもなる。
米軍の直接占領下におかれた戦後沖縄の歴史を語り新たな基地と埋め立ての不合理性を説く翁長知事に対し、「私は戦後生まれですから、沖縄の歴史は知りません」と言い放った菅はおそらくこの極秘計画を承知していただろう。タイムスの平安名米国特約記者によると、当時のオバマ政権の高官はこの常駐合意を把握していた。
離島奪還作戦を担う陸自水陸機動団は、極秘合意後の2018年、長崎県相浦駐屯地に2つの連隊が発足し、近々3番目の連隊ができる予定だという。キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブなど沖縄の米海兵隊は約1万人を残し約9千人がグアム、ハワイへ移転することに日米両政府は合意している。辺野古新基地ができれば、陸自が米海兵隊と共に戦争の訓練を行い実戦に出ていく舞台となる可能性が高い。
玉城デニー知事は、密約が明らかになるや直ちに、「全く聞いていないし、認められない。そもそも、辺野古に基地を造らせないというのがわれわれの明確な意思だ」と述べた。
米海兵隊と陸自の大規模共同訓練
大浦湾の活断層と最深90mに及ぶ軟弱地盤の埋め立てが見通せないにもかかわらず、政府防衛局は辺野古側の埋め立てに拍車をかけている。本部半島からの土砂の搬出は、このところ塩川港からの積み出しがないが、ダンプの数で1日1000台を超える日があるなど加速度的に増えている。キャンプ・シュワブの海上の工事現場では生コン車が行き来し護岸のかさ上げに注力している。県の緊急事態宣言などお構いなしだ。
1月28日から米海兵隊と陸自水陸機動団との共同訓練が始まった。米軍2500に陸自230が動員、金武町ブルービーチでの上陸訓練、揚陸艦での着陸訓練など、これまでにない規模の大きさで進行中である。共同訓練は基地の共同使用・共同配備を先取りしている。【編集部注:その後の新聞報道によると、海自輸送艦「おおすみ」の故障で陸自の参加人員が40人になり、訓練内容も限定された、とのことだ】
「南西諸島」の島々を日米の軍靴のくびきから解き放て
鹿児島から台湾に連なる島々、約150万人が暮らすこれらの島々はかつて「琉球列島」と呼ばれたこともあったが、再び、明治政府が命名した「南西諸島」という呼び名が復活しまかり通っている。米国に従属しアジアで互恵と平和共存ではなく軍拡と軍事対立政策をとる日本政府にとって「南西諸島」の島々は軍事利用の道具としか見えない。島の軍事利用を止めよ、平和と人権を保障せよというのは150万の人々の共通の願いだ。島々を道具として利用し犠牲を強いる日本政府の軍事政策を繰り返させてはならない。
県の非常事態宣言とオール沖縄会議の現地行動休止方針の中でも、辺野古、安和のゲート前では監視チェックと共に、小規模な抗議行動が続いている。海上行動は抗議船による週4日の監視行動が継続している。それらの様子は多くの人々によりFBやブログ、メールで日々発信されている。沖縄の闘いに注目し呼応する行動を全国で作り出そう。
2月7日投開票の浦添市長選
軍港は那覇にも浦添にもいらない!
浦添市長選挙は、自公の押す現職の松本市長と、埋立反対! 軍港は那覇にも浦添にもいらない! と主張する無所属の伊礼悠記さんとの激しい闘いになっている。告示を控えた1月29日午後5時から、浦添市安波茶交差点で、支持者が大挙結集して街頭スタンディングと総決起集会が行われた。交差点の周囲や陸橋の上には「軍港いらない」「女性市長を」のノボリが多数ひるがえった。
「カーミージーの海で遊び隊」の浪岡さんは「この海は浦添の宝、沖縄の宝だ。浦添初の女性市長の誕生で市政をチェンジし、軍港を止めよう」と訴えた。高良鉄美、伊波洋一の両参議院議員も応援に駆け付けた。座喜味宮古島新市長のメッセージは國仲県議が代読し、「ワイドー(がんばれ)伊礼悠記」と激励した。そのあと伊礼さんがよく通る張りのある声で「日米両政府の意図で動かされる浦添ではなく、市民の意思でつくり上げる浦添市を」「軍港は浦添の発展を阻むもの。あくまで反対する」と訴えた。
連日、選挙応援に頑張っているカヌーメンバーのてっちゃんから次のような報告が寄せられた。
僕は伊礼さんを応援する
現市長は8年前にはオール沖縄の推薦を受け軍港反対の立場で当選したが、軍港容認に転じた。パルコシティがある海は、家族連れや若者の憩いの場所となっていて、カーミージー(亀の瀬)の海とも称される。もともと1974年の日米の取り決めで那覇軍港は無条件で返還されるはずだったが、1996年SACO合意によって移設条件が付けられた。SACOの呪縛は沖縄のあらゆる基地の返還に足かせとなっている。
今回の選挙母体は市民団体が中心となっていることが特筆すべきだ。米軍による水汚染に対し「水の安全を求めるママたちの会」からは2人が共同代表となっていて、他は浦添市島ぐるみや研究者、大学教授、医師などである。事務所では換気と手指消毒などの感染対策が取られ、「コロナ危機から命と暮らしを守る」という候補者の訴えが事務所、選挙活動にも表れていると感じた。
1・24 健堅でムクゲとアカバナを植樹
彦山丸犠牲者を忘れないために
昨年2月、韓国、台湾、北海道、東京、沖縄から百人以上が集まり、彦山丸犠牲者の遺骨が埋葬された本部町健堅の現場で共同発掘作業を行ったが、遺骨を発見することができなかった。「本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」は、彦山丸が米軍機の銃爆撃を受けた1月22日を期して、彦山丸事件の経緯、発掘への道のり、共同発掘の内容と結果、参加者の感想、資料からなる記録集『埋められた歴史・記憶を探し求めて―本部町健堅で出会った東アジアの人々の記録―』を発行した。連絡先はEメール(ofukiko@gmail.com)
1月24日日曜日、帰す会のメンバーや地元の人々十数人が集まり、発掘現場の崖下の一角に造成された花壇のスペースに、彦山丸の犠牲者14人を忘れないための植樹が行われた。当初、1月23日に植樹式とシンポジウムを開催予定であったが、県の非常事態宣言が出されて集会の自粛が必要になったため、植樹式とシンポジウムは延期された。しかし、植樹だけは内輪で行おうと、この日の植樹に至った。
植樹のメインはムクゲ(無窮花)とアカバナ(仏桑華)。『LIFE』誌の墓標にある彦山丸犠牲者14人の出身地は、韓国2人と日本本土各地の12人。記憶を引き継いでいく植樹にふさわしい樹木は何か。韓国の場合はやはり、国花であり、愛国歌にもうたわれている無窮花であろう。日本の12人の出身地はそれぞれ異なるので、命を失った地・沖縄を代表するアカバナをもって、追悼と記憶のしるしとすることになった。
花壇には、潮風から守るようにフクギの苗木とともに、シャガとひまわりも植えられた。中央のパネルには『LIFE』誌の写真と墓標の14人の名前と職責、出身地、年齢、さらに「いつまでも忘れないために記念の植樹をする」と刻まれている。この花壇とパネルの場所は、沖縄県本部町字健堅、浜崎漁港のゲートを入り、左手に進むと約100mのところにある。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(42)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。引用は原文通り、省略は……で示した。
東風平町史『戦争体験記』(1999年発行)
金城豊一
「海軍陸戦隊」
私は、東風平小学校六年を昭和十年に卒業して、おばさんの家族と一緒に神奈川県横浜市に出稼ぎに行った。……川崎市の軍需工場で働くようになった。そこで働いている時、私は徴兵適齢期になり、富士見国民学校で徴兵検査となった。検査後も工場に戻って働いた。
そのうちに召集令状の赤紙が私にも来た。沖縄の連隊司令部からだった。急いで荷物をまとめ沖縄へ帰って来た。沖縄から多くの召集兵と共に鹿児島へ向かった。
私は当初、陸軍補充兵だったのが、いつの間にか、海軍に編入され佐世保に行かされた。佐世保に行くと、少しだけ陸戦隊の訓練を受けたが、間もなく羅津方面(朝鮮、満州、ソ連の国境地帯)の警備に回され、そこで警備を兼ねて初年兵教育を受けた。
背嚢を背負い銃を持ち、海軍と言っても陸軍同様の厳しい教育がなされた。
忘れようと思っても忘れられないのは、羅津方面の二月の寒さと罰である。罰として度々やらされたのが深い雪の中での腕立て伏せである。手袋なしの雪の中での腕立て伏せは、上腕まで埋まる有様であり、暫くすると手も黒ずんで、指の感覚がなくなっていた。
もう一つの罰は、野球のバット程の棒で尻を叩くのがあった。背骨を打たれては大変と思ってわざわざ尻をとんがらして打たせていた。風呂に入る時、みんな叩かれたあとが尻にはっきり分かる程だった。この罰の後は座る時も苦痛を感ずる程だった。又、厳しい訓練をしながら、いつもひもじい思いをしていた。班長連中のご飯は椀に盛りもり入れてあるが、我々兵の物は椀のシリチッチ(摺り切り)だった。ご飯は美味しかったが、あまりにも量が少なかった。……
昭和十九年四月二日、船舶警戒部員訓練で横須賀船舶警戒部に転勤になった。そこでは、大砲の撃ち方、いわゆる大砲の上下動、左右旋回、砲弾の入れ方等の訓練だった。
その後、四月二十二日は、武装商船・大博丸に乗った。この船には、短二十センチ砲一門、四十ミリ機関銃二丁、爆雷五個が装備されていた。大博丸は七千トン級の船だが兵はたったの十八人だった。……
沖縄へ歩兵を運んで、すぐ門司へ引き返し、門司から多くの歩兵部隊と箱詰めされた軍用犬を積んでマニラへ向かった。……
船倉にいる歩兵の中には海上運航途中死ぬのも出た。栄養失調と暑さのためだったのだろう。甲板に集まった多くの兵隊の見守る中、坊さんの読経で死者は毛布にくるんで水葬された。こうして何人かの歩兵が目的地のマニラに着くまでに屍となった。
ルソン島のサンフェルナント沖に来た時である。空からグラマンの襲撃と海中から魚雷の攻撃に遭遇した。大博丸も魚雷を避けるために懸命にジグザグ運航、水中聴音器を駆使していたが、とうとう武運尽きて、大博丸の横腹に敵の魚雷を受けた。船はグラグラっと大地震のように揺れ、電灯も消えた。間もなく大博丸は真二つに割れ、操舵室のある前の部分がたちまち沈没してしまった。船倉には多くの歩兵が乗っていたが、船もろともに沈んでいった。箱詰めされた軍用犬も一緒である。……
幸いに船の後ろに乗っていた我々海軍十七人は上官の判断が良かったので命拾いをした。船は後ろの方に、大砲、機関銃、爆雷などを装備してあったので均整がとれず、傾いたまま動かなくなっていた。こうして六時間位は待っていただろうか。台湾からの巡視船に曳航されて、ルソン島北部のサンフェルナントの砂浜に着いた。
サンフェルナントは日本陸軍が守備していた。船のない我々海軍はひとまず、ここの陸軍守備隊に編入された。……間もなく海防艦がやって来て海軍の十七人はそれに乗って台湾の高雄へ行った。……
一月六日、客船用の吉備丸に乗って宇品に着いた。宇品からすぐ横浜に行った。横浜に着くや否や私は左胸膜炎(肋膜炎)にかかった。一月中旬といえば横浜では真冬である。暑い所から急に寒い所に来たから身体に異常がきたのであろう。一時、横浜で入院していたが、京都の海軍病院へ移された。……
昭和二十一年十月、久場崎に引き揚げてきた。米軍の車で家に着いたら、父は防衛隊で戦死、妹の二人も特殊看護婦で亡くなっていた。
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